人生常に自分探し中、iCHiKAです。
今日は一旦PCの話題から離れて、文学的な事を考え、浸ってみようと思います。
始めに申し上げますと、あくまで個人の考えです。別にこうあるべきだという強要ではないのでご了承ください。
私は文語は「私」統一で、なるべく「けど→けれど」など、些細な言い回しをよく気にしているのですが、口語は「僕」という一人称で話しています。
これには少し訳があるんですが、私は幼少期~少年期は自身を名前呼びしていました。
人前だと『俺』といい、家族の前だと「自分の名前呼び」でした。
『俺』ということは周りも使っていたし、対等な立場なら違和感はなかったんですが、
相手は家族、特に親や祖父、自分より年上のも親戚に会うわけですから、
「俺というのはおかしいだろう、ぶっきらぼうでなまいきだ」という考えでした。
しかし親戚や親に「自分の名前を一人称として呼ぶのは女の子っぽいよ」
と言われたことがきっかけで、自分ってどういう存在でどういう一人称がふさわしいんだろうと思いました。
結果『僕』に至りました。
『僕』とは『下僕』が由来の謙遜語です。
当時自分を卑下し、劣等感を持っていた僕としてはこれ以上にない一人称だったのです。
『私』は「わたくし」から変化したものですね。ここから「わたし」、くだけると「あたし」になるわけです。
「わたくし」という身分でもないです。
だから幼いながらも、「『私』は文語や立場が違う人と接するときなど公用語として使うことはあっても、口語は女性の方が利用する」という考え方を持っていました。
『俺』は古くからある自分を指す一人称です。ただ、時代とともに男性が、立場が同等以下の人と接しているときに自分指す言葉です。
つまり私の場合は、親や家族に接するときは「僕か私」が好ましく、
当時劣等感を抱いていたので対等以下の方と話す際には「俺か僕」が好ましく、『僕』に至りました。
そう考えると「僕っ娘」という文化はありますが、自尊心低めな女性なら全然あり得るんじゃないでしょうか。それともやはり口語も文語も『私』で統一できる利便さがやはり僕っ娘が出てこない原因なのでしょうか。(知らんけど)
ただ、歳を取るにつれて、「ずっと『僕』なのはどうなのか」という疑問はあります。
度々「いい歳して僕って言ってんのはヤバい」という事を目にしたのですが、
まぁ間違いはないと思います。
『僕』のルーツをたどれば、自分を卑下した謙遜語ですから、
いつまでも使い続けていたら、いつまでも劣等感を抱きながら生きている印象にはなる……のかな?と。
しかし、『私』と言う口語になるほど、物事をわきまえていて適切な自尊心があるかといえば違うと思います。
私は今の私は劣等感を抱いているくに少々口と態度が大きく思いますから、
とても適切な自尊心とはかけ離れています。だから
今後変化するなら『俺』なんだろうなと思います。
そういう尺度で見ると、人の一人称って参考になるし、他所向きの顔と、身内の向きの顔ってなんとなくこんな感じなんだなあと、少し見えてくるものがあります。
まぁそれを意識的に考えて悩むような暇人はなかなかいないと思いますが、
自分を見つめ直す。適切に評価する。その評価したものを直すか個性として活かすかはそれぞれですが、適切に評価する。
それは必要かもしれないですね。
そのきっかけが昔も今も、私にとっては一人称でした。
別に人それぞれ、意識するしないも自由だと思います。
という、役に立たない話でした。